おかげさまで弊事務所も10周年を迎えます。 (10年間を振り返って)

おかげさまで弊事務所も10周年を迎えます

あくまでも個人的なお話です。

こんにちは。

茨城県桜川市の社労士 海老澤亮です。

今日はいつもとスタイルを変えまして、弊事務所のことについて書いてみます。興味のない方はスルーしてください。

無謀とも思えた開業

私が社会保険労務士事務所を開業したのは、平成22年12月15日でした。これを書いているのが令和2年12月8日ですので、あと1週間で事務所開業から10年になります。(どうでもいい細かい話ですが。)

なんで社労士事務所を開業したのか? といいますと、一番大きい理由はネガティブなものだと思います。

「サラリーマンが勤まらなかったから」ですね。

弊事務所を開業したのは37歳の時で、社会に出てから15年たっていました。
でも、その15年間に新卒で拾ってもらった会社を2年足らずで辞め、その後6年くらいずつでクリニックと会計事務所を辞め、と3社で働きました。
昔から我がままだったので、人の意見に合わせることがうまくできませんでした。職場での評価も、自分で見ても、大して高くなかったと思います。

そんな調子でしたので、私が「社労士として開業する」といっても、

「大丈夫か?」

という方が大半だったと思います。私自身も、開業したところで「うまくいく」自身はありませんでしたし。実際に「お前は何をやっても失敗する」と言ってくれた人もおります。(ここで「今ではその方に感謝しています」なんて言えればいいんですが、俺にはそんなきれいごとは言えません。今でも根に持っております。(__))

それでも、家内は「しょうがないな・・・」というような様子で反対しませんでした。「言っても聞かないだろう」とあきらめていたのかもしれません。
それにうちの家内は、見た目とは違い(皆さんは知らないでしょうが。)意外と肝が据わっているんですよ。結婚してから、私が色々と冷や冷やさせているとは思いますが・・・。

お世話になっていた職場でも、有難いことに、退職する前にわざわざ慰留してくださる方もいらっしゃいましたが、退職願を出した後に撤回することはできませんでした。それに「死ぬ前にあんまり後悔したくないな」と勝手に思っているのもあってか、「ここで撤回しても」という気持ちもありました。(でも、本音ではサラリーマンをもう続けたくない、というのがありました。)

開業後

お世話になった職場を平成22年11月25日で退職し、翌月に社会保険労務士の開業登録をしました。その時から、現在地でテナントをお借りしております。(「自社ビルを建てたい」というような大それた野望はありません、当然ながら。)

大した準備もしないままに、「とりあえず社労士を始めてみた」感じです。開業登録から2週間後の15日を、お世話になっている先輩が「日がいい」ということで開業日にしました。開業しますと、皆様からお花などのお祝いをいただきまして、ありがたかったです。不安でいっぱいではありましたが・・・。開業した月の売り上げは1万円でした。(でも、有難かったです。初めて自分の名前で商売しましたから。)

開業から半月後の平成22年12月31日の大晦日は、なぜか今でも記憶に残っています。夜、事務所でラジオの紅白歌合戦を聞きながら、なんかの作業をしておりまして、当時はやっていたAKB48の「ヘビーローテーション」が流れてきたのをよく覚えています。お世話になっている先輩がAKBのファンで、CDをたくさんいただいていたからだと思います。(その後、先輩に連れられて、AKBのコンサートと握手会にも先輩のおごりで参加しました。)

当初は先輩に色々と面倒を見ていただき、地元の知人をご紹介していただきました。その中で、今でもお付き合いのある方と知り合い、そこから徐々に知り合い(人脈というのもおこがましい)が増えていっております。

最初に社労士として正式に顧問契約をいただいたのは、開業から2カ月たったころでした。最初の1年間で何件か顧問契約をいただきまして、また大規模な案件(私にしては)も受注いたしました。でも、はっきり言って赤字でやっておりましたので、貯金を切り崩しながら、何とか生活していた調子です。とはいえ、初年度に社労士として色々と経験ができたのは良かった。

最初にこのHPで扱っている障害年金の仕事をしたのは、平成23年秋でした。それまでは「年金の仕事って食えるのかな?」と思っていました。
その最初の案件は、お世話になっている不動産屋さんの紹介でした。

その方のお知り合いの司法書士さん→保険代理店さん→障害年金のお客様とつながっていきまして、茨城県内の方をご紹介いただきました。ご紹介いただいてからのにわか勉強で、でも今にして思えば比較的取り組みやすい案件でしたので、何度もご自宅にお邪魔しながら、不器用に請求できました。
障害等級は当初予想していた等級になりまして(これは案件の性質上、当然な結果なのですが。)、私もホッとしました。

その後、お金をケチって自分で作っていた事務所のホームページに、障害年金のことを書いて、リスティング広告を出しました。平成23年当時は、弊事務所以外は茨城県内で障害年金のホームページを出しているところは、ほとんどありませんでした。そのため、障害年金の問い合わせが一気に増えまして、開業から2年ほどでなんとか「赤字」から脱出できました。企業の顧問契約は、徐々に増えていきましたので、それに比べて障害年金の仕事が増えて、私がなんとか10年間商売をやってこれたのも、運よく障害年金に早くから取り組めたからだと思います。

仕事の内容は徐々に変化していきました

障害年金の仕事は、平成25年、26年ごろがピークでした。頼まれる件数は、それから徐々に減っていきました。競合も増えましたし、ほかにも立派な事務所さんがたくさんありますので、しょうがない話です。

平成24年、25年ごろは単純に障害年金の請求をする仕事が多かったですが、その後は段々と「審査請求」などの不服申し立ての仕事が増えていきました。なんでだか、理由は分かりませんが。取り扱う傷病も、精神疾患が多かったのが、難病と言われる疾患が増えていきました。これも理由はないのかもしれませんけど。

東京霞が関の厚生労働省に「再審査請求」の公開審理に参加する回数も増えていきましたが、その待合室では、茨城県内の「有名どころ」の社労士の先生方とお会いする機会が意外と多かったです。
私自身は何らかの社労士グループに属しているわけでもないので、同業者の方に会うことは少ないのですが、厚生労働省の控室では本当に頻繁にお会いしまして、皆さん熱心に仕事されているんだな、などとぼんやり思っておりました。

障害年金の仕事はそんな感じでシフトしていきました。その後現在に至るまで、あんまり大きな変化はありません。

今後

今後のヴィジョン、なんてたいそうなものははっきり言ってないんです。

だから、ダメなんだろうな、と自分でも思いますが・・・。

私自身は、身軽に、自由に生きたい・・・と思っておりまして、(これは「ミニマリスト」的な生活を目指している家内の影響もあると思いますが。)売り上げをもっと上げたい、というのもあんまりありません。

売り上げを上げるとなると、その分仕事も大変になりますし・・・。大規模事務所を目指す。高級車を買う。豪邸に住む。そういうのにはあんまり興味がないんです。車は乗れればいいと思いますし、家も親が建ててくれた実家で十分だと思っています。事務所も賃貸がベストだと思います。物を持つと、機動力が下がるというか、いざという時に困ることが多いと思うので・・・。

それよりも、英語の勉強をしているので、海外旅行でもしてきたいですし、(独りでふらっとニューヨークでも行きたい。)図書館で1日ぼーっとするのもいいな、と思います。昔買ったテレビゲームで遊ぶのもいいし、映画を色々見たり、読書もバンバンしたい。そういう地味な生活には大してお金もかかりませんし、今より「生活レベルを上げたい」とは思いません。これから死ぬまで地味に、楽しく、自由に暮らしていければいい、と思います。

そのために社労士として、いくらかは人様の役に立たなくてはなあ、と思います。やっぱ、周りの方々がいたから仕事も続けてこれました。いろいろとお世話になりましてありがとうございます。また・・・もしよろしければ、今後もご指導いただけましたら幸いに存じます。  (社会保険労務士 海老澤亮)

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